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2015年4月12日

「日本画のハードコア」展を観て。


「日本画のハードコア」展を観て。

ハードコアとは中核、中心人物、核心部という意味。
「日本画」というのは私のサブテーマでもあるのでこの機会に考えてみたいと思いました。



日本画のハードコアとは何なのか?
私はコアは空洞、空白なのだと思っています。
「何もない」のだけどその「日本画」という言葉の周縁に、作家と作品と鑑賞者が群がって、コアの部分が浮き立って、何かがあるように、ぼんやりと中心が見える気がする状態でしょうか。
「何もない」のだけれども、何でも取り入れてしまうものでもあり、個人がそれぞれ「これがハードコア」だと言うのはどれも間違いではないでしょう。何でも入れることが出来る空っぽな器。
日本という名前が付いて、器は立派に見えるものでもあります。


かつて岡倉天心は「茶の本」の中で日本(東洋)の文化を「空っぽ」な器として、様々なものを含み、自由な発想を引き出す場所こそが本質である・・というようなことを言っていましたが、日本画もそのようなものと考えられると私は思うのです。


そこへ日本画のハードコアを断定しようという人が現れたのなら、眉唾ものながら、観て、聞いてみたいと思うものです。
大きな意味でのハードコアを規定してくれたら、どんなに良いものかと思います。
器の中に入れるものは自由なので、それぞれ個人のコアがあるばかりです。
皆、中心には「何もない」と思っているのではないか。周縁にしか作品はない、けど浮かび上がってきた中心に何かあるような気がする、、それが「日本画」、近くに行くと何もないのだけど・・。


しかし、「日本画のハードコア」・・・・魅惑的な展覧会名です。

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