ダルくて歩けない。
なんでこんなに不健康になってしまったのか?
健康を取り戻さなくてはいけない。
色々と上手くいかないものですね。
森の中を彷徨っている。けど、ダルくて歩けない、、みたいな。
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なんでこんなに不健康になってしまったのか?
健康を取り戻さなくてはいけない。
色々と上手くいかないものですね。
森の中を彷徨っている。けど、ダルくて歩けない、、みたいな。
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未だにたまに天才に産まれたかった、、などと思ってしまう時がある。
天才ではないと知ったのは、まだ子供のときからだったと思うのに。
悩みも天才と凡人では違うのだろうと思います。
私の悩みは凡人です。
私のスタートは天才ではないと気付いた時からだとも思うので、
やれることをやっていきたいですね。
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個性。
個性を大事にしよう。と良く言われる。
でも、ここに主語はないです。
私は個性は自分の個性を大事にするということではないとおもっています。
相手の個性を大事にする。
それが、個性を大事にするということなのだと。
絵で言うなら、モチーフの個性、そのものの良さを大事にして、認め、引き出すことが大事なのだと思っています。
美術家は本来、自分の個性を押し付けるのではなく、個性を認めて、良さを引き出すものであるべきだと思います。
料理人にたとえると素材本来が持っているものを引き出す料理人。
それが、皆、個性という名のソースやふりかけを振りかけるのです。
それをまた、褒める人も多くいるので、多くの美術家は料理人ではなくソース屋になってしまう。
近代日本画の成果の一つは観察に基づいた、対象の良さを引き出す、花鳥画や静物画にあると私は思っていて、芸大の日本画の試験などで静物着彩が出題されるのも、そんな理由だと思っています。
芸大の試験では受験性の個性など問題にしていないのです。
むしろ、対象を観察し、どれだけそのモチーフの良さを引き出しているのかが大事なのだと思います。
個性など見たくない、どれだけ個性を引き出すことが出来たのかが重要なのです。
これは、私は本質的な話だと思っているのですが、なかなか難しいことですね。だって、人間だもの、、。
私は制作の根本の一つにしています。
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”作家には「描きたいもの」と「描けるもの」があるんだよ。そして、作家が「描きたいもの」は大体コピーなの。既製品の何かで、その人がそれまでの人生で憧れてきたものでしかない。”
この部分、私は共感できますね。
リンク先はゲームと漫画についての内容です。
以下は一部を抜粋したものです。
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じゃあ、ビッグヒットを生む最大のコツは何か分かる?
――いや、さすがにちょっと(笑)。
鳥嶋氏:
簡単。「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」ですよ。
いかに作家に無駄弾を撃たせて、いかに何度もダメ出しをして、最後には作家に「自分は他人よりなにが優れているか」を悟らせるか、これに尽きるんだね。
編集の側から「こうすればいい」とサジェスチョンしても、結局は作家の身にならない。作家自身に自分で気づかせる以外にないんです。ということは、編集の仕事は短時間に的確にダメ出しを繰り返すことに尽きるんだよ。まあ、技術論のレベルでの指導もしていくわけだけどね。
――でも、作家自身で自分が本当に「描きたいもの」に気づくのって、ずいぶんと難しくないですか?
鳥嶋氏:
そこでもう一つの話になるんだね。
作家には「描きたいもの」と「描けるもの」があるんだよ。そして、作家が「描きたいもの」は大体コピーなの。既製品の何かで、その人がそれまでの人生で憧れてきたものでしかない。
鳥山明さんであればアメコミっぽい作風だとか、そういうものが「描きたいもの」としてあったけど、そこからヒット作はやっぱり出てこないんです。実際、鳥山さん自身の「描きたいもの」は、申し訳ないけどつまらないんですよ(笑)。
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http://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima
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依頼で受けた作品を制作していますが、こういう作品も良い面もありますね。
今まで作ることのなかった作品を作ることになるので、自主的ではないものの広げてくれる気がします。
何でも描けるようになりたい。
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以前の自分と今の自分は何か違うのだけど、何かいつのまにか
こんな風になってしまって、それが良いことなのか、悪いことなのかわからない。
以前のようには今は戻れないし、今は今で真剣に取り組むしかないのでしょう。
次の個展までいつのまにか、あと少しになってしまっています。
怠けてばかりいてはいけませんね。
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私の作品にはルールというものを決めてあります。
「自分の身の回りにあるどこにでもあるもの」を描くとか
「写真に写された形をそのまま写す」とか、、まぁ簡単なものです。
そのルールの中でも「自分で写真を撮ったものしか使わない」ことにしているのですが、それは著作権とか色々ややこしい問題になるのは避けたいためです。別に私としては他の人が撮った写真を使っても創作には良いくらいなのですが、面倒なことは嫌なので自分で撮影した写真の形しか使わないことにしています。
一連のオリンピックのロゴの盗用、パクリ疑惑を目にして、やはり、ネットなんかで拾ってこなくて良かった・・と改めて思っております。
オリジナルなんてないし、ほとんど引用で出来ているのが私の作品です。展覧会の際のコメントなどもどこかで誰かが書いたり、聴いたりしたものに共感して書いていますし、作品は今まで観た過去の名品を思い浮かべながら作るのが常です。
同時代に共感できるモチーフや作品などを見かけたときも、むしろ積極的に同じようなものを作るようなこともあります。
それは自分の作品の歴史にして作っておくことが、後々の作品に良い影響を与えることもあると思っているからです。
作品を作るうえで最も価値が高いのはやはり誰も観たことも想像したこともないような「発明」でしょうが、歴史に残るようなそんな「大発明」はそうそう出来ないものです。
「編集」とか「サンプリング」とか「リミックス」とかそういったものでほとんどの創作物は作られていると思いますし、作家はどこか「自分以上」のものを作りたいと思っているところがあって、それは他者の創作物(多くは美術史の名品)を自分の中に取り入れることに行きつくことが多いのではないかと思います。生まれたままの子供のような造形はそれはそれで素晴らしいかもしれませんが、私たちは歴史から美術の教養を学び、自分以外の作品と繋がりながら作るしかなく、完全なオリジナルなんてありえないと思います。
私はゆとり教育の世代ではないですが、「個性」という言葉にはそれでも苦しめられ、その後「個性」なんか創作にはいらないという考えに至り制作していますが、世の中「個性」とか「オリジナリティ」を求めるのは本当に悪だと思っています。
世の中的にはコピペは悪だけど、私としては全然悪ではないと思っています。
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個展のお知らせ
阪本 トクロウ|中空
ギャラリーMoMo
http://www.gallery-momo.com/
2015 年8 月29 日(土) - 9 月26 日(土)
オープニングレセプション:8 月29 日(土) 18:00 - 20:00
営業時間 :12:00 - 19:00 日曜・月曜・祝日休み
日常で目にするありふれた風景の断片を描いています。
木や電柱や家並みなどのモチーフは、画面のバランスをとりながら中空を浮かび上がらせるために存在しています。
中空とは、外側だけがあって中ががらんどうの構造のことです。
可能性としての虚を意識するという文化は古来から現代の私たちの生活まで様々なかたちで見られます。
例えば、神社は空の器であり、中空であるが故になにかが宿っていると考えられ、人々の思いを受け入れる器としても機能してきました。
また、日本語は主語と述語の構造が曖昧で、主語がなくても文章が成り立ってしまうという、ある種の空虚さをはらんだ言語とも言えます。
今、目の前に広がっている世界をトレースすることで、空っぽな自己の輪郭が浮かび上がってくる気がします。
中空構造は自然に私たちの中にあるようなもので空気のように無意識になりがちなものだと思います。
自らの中空・虚を積極的に意識し直視することが私の作品制作の動機の一つとなっています。
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大きい作品が作れない。
いつも大きい作品を作りたいと思いつつ、でも作れない。
2mくらいまでは良いのですが、それ以上のものが難しいのです。
とにかく認められるためには超大作が求められる傾向にあり、
そのことはどうしても意識してしまうものです。
作品はサイズだけで判断されるものでもないと思いますが、
まぁいつか超大作を作ってやる!という気持ちは持っています。
今回の個展も結局小品ばかりですが、いつか必ず作ります。
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美術の世界にはコンクール、コンペ、公募展といった審査される場が多くあります。
他にも大学の入試や奨学金の合否、展覧会の選抜など選ばれる、選ばれないという場が非常に多くあります。
どれもが入選、入賞、合格よりも落選、選外、不合格となる人の方が数倍から数十倍多いと思います。
大体の場合、募集の際に広く才能を発掘し、世に羽ばたかせるため、、というような文言が書かれています。
しかし、実際は伸ばすよりも、叩かれ潰される人数の方が圧倒的に多いのです(非常に罪深い・・・)。
とはいえ、多くの人に観てもらえるチャンスでもあるし、良い結果が得られれば、その後の活動に大きな自信と余裕を持てることになるので、チャレンジする価値も大いにあります。
褒められて伸びる人はたくさん居るでしょう。
叩かれて伸びた人というのは私が知る限りほぼ居ないと思います。
叩かれて伸びた、成長したということは無く、それは叩かれてもへこまず、打たれ強くなっただけです。
制作と発表を続ける限り、自尊心が傷つくような出来事は避けられないところもありますが、
わざわざ傷つき、落ち込む場所に行く必要はありません。
自分を最大限に評価し、認め、褒めてくれる、必要とされる場所に行くべきです。
それがどこにあるのかは人それぞれ違うと思いますが、必ず「ある」と言えます。
どんな作家にも良いところはあって、共感を持って観てくれる他者は必ず居るのだろうと思います。
あと、才能は関係ないのです。
なぜそう言えるかというと、才能が無い人に私は出会ったことがないからです。
(不幸だと思うのは、自分にあるものと無いものが分かっていない場合はあります。)
周りはみんな才能ある。だから自分にも何かあるのだろうくらいに私自身は思うことにしています。
ちょっと説教くさい文になりましたが、自分に向けて書いておきました。
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私の最も幸福な時間を過ごしたのは大学に入る前の予備校に行っていた浪人時代です。
毎日目標に向かって8時間以上只々描いていた日々。
あの時のように生活できれば、どこまでも自分を向上させることが出来るのではないかと思います。
明確な目標があったし、幸せな時間だったのだろうと今さらながら、思います。
あの感じに意識して持っていきたいです。
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今まで作った作品で良く出来たと思えるような作品はとても少ないです。
ほとんどが駄作と言っていいと思います。
そのことがたまに嫌になってきます。
それでも、作り続けるしかないという結論に最終的に落ち着くので、
これからも駄作だろうが何だろうがやるしかないのです。
よくギャラリーを廻っていても量が作れる作家は質なんか関係なく私は尊敬出来ます。
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私の作品は身近なものをモチーフにしながらも
自分に固執していては良い作品は生まれないのかなぁとも思います。
自分から離れる、自分から逃れる、そんな感覚に持っていかなければならないし、
それは望むところです。
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「日本画のハードコア」展を観て。
ハードコアとは中核、中心人物、核心部という意味。
「日本画」というのは私のサブテーマでもあるのでこの機会に考えてみたいと思いました。
日本画のハードコアとは何なのか?
私はコアは空洞、空白なのだと思っています。
「何もない」のだけどその「日本画」という言葉の周縁に、作家と作品と鑑賞者が群がって、コアの部分が浮き立って、何かがあるように、ぼんやりと中心が見える気がする状態でしょうか。
「何もない」のだけれども、何でも取り入れてしまうものでもあり、個人がそれぞれ「これがハードコア」だと言うのはどれも間違いではないでしょう。何でも入れることが出来る空っぽな器。
日本という名前が付いて、器は立派に見えるものでもあります。
かつて岡倉天心は「茶の本」の中で日本(東洋)の文化を「空っぽ」な器として、様々なものを含み、自由な発想を引き出す場所こそが本質である・・というようなことを言っていましたが、日本画もそのようなものと考えられると私は思うのです。
そこへ日本画のハードコアを断定しようという人が現れたのなら、眉唾ものながら、観て、聞いてみたいと思うものです。
大きな意味でのハードコアを規定してくれたら、どんなに良いものかと思います。
器の中に入れるものは自由なので、それぞれ個人のコアがあるばかりです。
皆、中心には「何もない」と思っているのではないか。周縁にしか作品はない、けど浮かび上がってきた中心に何かあるような気がする、、それが「日本画」、近くに行くと何もないのだけど・・。
しかし、「日本画のハードコア」・・・・魅惑的な展覧会名です。
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いつでもそうだけど、他人と比較すると落ち込むものです。
まぁ、でも比較してしまう。
比較して、落ち込んで、でも自分に出来ることをしようと思い立ちます。
それも、いつものこと。
結局、出来ることしかできないし、やるしかないのです。
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先日、大学の時の先生の一人である岡村桂三郎先生の個展に行った時にお話しさせてもらったのですが、
岡村先生は制作にはほとんど悩むことなど無いと言っていました。
いつも猛烈な大作の質量とそれを作るスピードに驚かされていましたが、迷いや悩みなどは無く、作るだけだというその制作スタンスは私も感化されなくてはならないところだと思いました。
考えてみれば、私が普段制作で悩みや迷いがあるものを改めて考えてみると、まぁどうでも良いことが多くて、くだらないことばかりです。
あと、朝に制作するということも聞けました。私の知っている限りですが、朝型の制作スタイルの作家が多く、そういう作家は忙しそうに見えて、質量が凄いことが多いです。
夜にいつも制作している私ですが、いずれ朝型にしたいところです。
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作り続けているから作れているようなところがあります。
作品が作品を生むサイクル。
少し作らないでいる時間が続くと、このままずっと作らないことになっても
別に不思議ではない感覚になります。
大学の時の友人の多くも作ることはしなくなってしまっています。
作らなくなった人の気持ちも私はなんとなく分かっているつもりでいます。
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あるシステムとルールがあって、それに沿って制作が進むような作品は一見クリエイティブなところが少ないのですが、完成した作品は私の場合上手くいくことが多いように思えて、よくこの手法を使います。
長期間考え続けて、悩みと迷いを持ちながらの制作は疲れる割に失敗も多いです。
悩みが無い制作もつまらないので、手法はあっち行ったりこっち行ったりで結構バラバラです。
まぁ制作は悩みたくて作るようなところもあるかなと思います。
制作の悩みしかないような時は多分幸せな時間なのでしょう。
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悩みや迷いは少ないが時間だけはかかる作品に取りかかっています。
ただ塗るだけの単純作業が延々と続く制作ですが、
年末年始に休んでいた制作からリズムを取り戻すためには結構良い作業になっているかもしれません。
展示の直前にはこういう時間のかかる作品はストレスになるので、余裕のあるときにしか出来ない作品でもあります。
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何もない日なんてないのだけど、
一言で今日を表すとすれば、やはり何もない日となってしまいます。
悪い日ではなかったのだろうと思います。
意識しないと発見はないのです。
毎日何か発見のあるものにしたいです。
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小品の制作が終わり、新しい作品を描かねばならないのですが、
いつも何を作るのか決めるまでが大変です。
今までと同じものを作ってもつまらない、かといって全く違う新しいものなんて、そう簡単に出来るものではありません。
良い作品を作りたい気持ちが、頭を硬直させます。
とりあえず作っても良いかなと思っている作品があっても、いざ真剣に作品に向かうと不完全で、突如として壁が現れて塞がれてしまったりもします。
ただ、今までの経験から数日考え続けていると、ちょっとしたひらめきは訪れるはずです。
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今日は近くの温泉に行って、露天風呂で流れる雲を見たり、遠くに霞んだ甲府盆地をを眺めることが出来てリラックス。
何もしないような日はあまりないですが、何もしない日は不安に感じてもしまいます。
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「生誕200年ミレー展 - 愛しきものたちへのまなざし -」。山梨県立美術館。
ミレー作品は山梨県立美術館の代名詞的なコレクションがあり、昔からよく観ています。この展覧会は初期に描かれた作品も多くて、ミレーが「ミレー」になるまでの作品が多く観れます。初期のものは確かな技術で描かれた肖像画などが観れました。
私たちが良く知るイメージはミレーが30代後半くらいから制作したものです。それ以前と何が違うのかというと逆光が多くなり、顔を中心に形がハッキリとは見えなくなってくるところです。逆光によってぼかし、細部を描かないところがミレーの絵の肝で大切なところだと思います。
画像の「落穂拾い、夏」という作品は美術館にある作品の中でも昔から好きな作品ですが、これは構図で人物を下向きにして顔を隠すというミレーの発見が見てとれます。顔を下向きにして見せないことで、視線を顔に注目させず、暗くなりがちだった画面に色彩が加わって明るい画面が可能になっています。ミレーもこの作品が気に入っていたと思います。何枚も同構図で制作していますから。
このミレーの絵の見せ方は現代でも結構有効で展示を観ているとよく同手法が見れます。
美術館の解説文を読んでもこういうことは書いていなくて、いつも、その作家のどこが凄くて、ユニークで、同時代の作家と比べて何が突出していたから有名なのかという説明がほしいなぁと思っています。別に農村風景を描いたからミレーが突出した作家になったわけではないのですから(でも美術館の解説文には出自や農民画を作りだしたということばかり・・)。
ミレーは後期になると、その色彩と光をより考えた作品になって、印象派とも近似したものにも見えますし、私は今回ボナールを想像しましたね。
「見せない」「隠す」「ぼかす」などが私がミレーを観る時にいつもキーワードにしていることです。
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